人の顔色を伺う

周りの人の顔色が気になる。

自分のしたことや、言ったことを、相手がどう捉えるか。

誰しも多少は気になるものだと思うけれど、これも行き過ぎると人と交流するのが難しくなり、生活に支障がでてくることもある。

人は、根源的な欲求として、何かの集団に属していないと生きていけないと本能的に知っている。

社会的な生き物で、たった一人では生きていくことができない。

子どもの時は、親から見捨てられないように。

学生の時は、学校、友達の中にいられるように。

社会人になったら、職場の中にいられるように。

家族を持ったら、家族の中にいられるように。

1人暮らしで、家族が誰もいなかったとしても、どこかで働いている人がいるからこそ、食料が手に入り、家に住むことができている。

その時点で、社会の中に属していることになる。

それゆえ、相手から嫌われ、仲間外れにされることに過剰に恐れを抱きやすい。

私もこの恐れを強く感じるほうだ。

でも、人の顔色ばかり伺っていると、自分自身のことが犠牲になる。

本当は言いたいのに言えない、したいのにできない。

これが蓄積されていく。

そんな時、私はどうしているかというと

人の顔色が気になり過ぎてきたなと思ったら、すかさず「自分の気持ち」に意識を向けていく。

無意識に人の顔色には自然と意識が向くので、今度は意識的に自分の気持ちに意識を向ける。

「私はどう思っていて、どうしたいのかな」と自分に耳を傾けてあげる。

相手の顔色が気になりすぎているときは、大げさな表現をすると、自分の魂を人に譲っているようなもの。

自分の魂を人に譲っていたら、自分を生きている気がしないのは当然のこと。

私はどう思っているか、どうしたいに気づいてあげるだけでも、人の顔色を伺って波立っていた心が少し落ち着いてくる。

そこで一歩踏み出せる人は、自分の気持ちを伝えてみる。

伝えることが難しかった場合は、自分の心の中、もしくはノートなどに書き留めておく。

そうやっていくうちに、自分の本心、本当はどうしたいか、どうありたいかが浮かび上がってくる。