共感はするものではなく、自然としてしまうもの

共感はしようとしてするものではなく、気づいたら自然と共感しているのが本来の在り方。

それに気づいた今日この頃。

自分自身の心や内側に向き合ってきて、数年。

どんどん心の健全度が上がってくると、正直悩みを抱えている人達の話に対して、距離感を感じる自分がいた。

以前はもっと近くにいたし、共感と思っていた状態はおそらく「同調」や「同感」だったのだと今振りかえると思う。

距離感があるのは、当初は「なんて自分は冷たい人なんだ」とマイナスに捉えていたけれど、じつはそれは他者と自分との間に健全な境界線(バウンダリー)ができるようになったということ。

人間関係の悩みのほとんどは、このお互いの心の境界線が離れすぎたり、近づきすぎたり、もしくは重ねあっていて起こる。

他者と自分は本来違う人間なのに、一緒にしよう、同じにしよう、正そうとして捻じ曲げようとすることで、心のエネルギーを消耗し疲弊することがストレスとなる。

クライアントと距離感があるなと思ったのは、それはクライアントとの健全な心の境界線ができたという証であって、それは私の健全度が高まったことでもあった。

そうなると、クライアントの話をきいて心がぐっと動いて、涙が出たりするときは、クライアントが心の底から本心を吐露するような言葉や場面のみなった。

心の表層部分にある上澄みや、本心を守るための防衛の言葉はまったく共感ができない、心が動かない私となった。

冷たくなったのではなくて、物事の核心に触れられるチカラがついたのと、共感は意図的にしようとするものではなくて自然と起きることなのだと、人の話を聞く仕事をしてきて10年以上経った今、気づいている。