お金とは、自分にとっての価値が見える化、具現化された愛のエネルギー。
見てはいけない、穢れた存在
ながらく、私にとってお金、とくにお札などの現金は見てはいけないし、触れてもいけない、穢れた存在だった。
日本の風習では、お金をやり取りするときはそのまま裸で現金を差し出すより封筒や熨斗に包むのが仕来りで、スマートだと言われる。
そのままの、ありのままのお金を見てはいけないと思ってきた。
鮮明なお金の思い出は、真夜中に札束を数えている母親の姿
家は自営業で、当時は従業員に現金でお給料を支払っていた時代。
「お札を一枚たりとも間違えていれてはいけないから」と真剣な硬い表情で話す母。
その様子を見た私は、大事ななにかを握られている感覚になった。
その「何か」とは、私にとっては自由や人生。
母に自分の人生や自由を握られているという不快感と窮屈感
子ども時代は、自分でお金を稼ぐことができなかったので、何をするにも、欲しいものを買うにも親の許可が必要だった。
母はお金という自由、許可を握っている存在で、私は自分の意思を実現させるには母を納得させOKをもらわないといけない。
もどかしく、怒りや悲しさ、無力感があった。
とはいえ、母が許可を出す「母の領域で生きる」ことは安心感にもつながっていた。
その領域にいれば、何があっても母のせいにできるし、責任をとる必要がなかったから。
大人になってもお金は見て見ぬふり
成長して大人になり、自分で収入を得ることができるようになると、一気に自分の自由が広がった。
何にお金を使うかは私の自由で楽しい反面、使い方は自分で決める責任、怖さが伴う。
将来のためにお金をどう使っていくか。
迷いと、これでいいのだろうか、確証が得られない不安。
とくに、齢40代後半になり、これから先の人生のためにできるお金のこと、資産の運用はどうしたらいいのだろう、そんな迷いもある。
お金を愛というエネルギーに置き換えて見えてきたこと
お金にはたくさんの価値観や心の投影が入り乱れている。
物質的に考えると、お札はただの紙幣という紙だし、硬貨は金属にすぎない。
なのに、なぜここまで囚われたり、嫌われたり、好かれ、執着するのかが不思議な存在。
目にはみえない価値を交換するために、できたのがお金。
見えない価値には、例えば心、愛、好き、ワクワクとかが入る。
自分がほしい価値を手に入れるためにお金を払い、それと同時に、相手が自分に対して価値を感じてくれてもらえるお金。
お金を払って、お金を得る。
自分の中にある愛を出して、愛を受け取る。
この循環が見える化しただけだった。
ようやく、お金が怖くて見てはいけない存在から、見たい、感じたい存在に変わってきた。