心配という名の愛

日本人は不安を感じやすいと言われている。

昔から災害が多い国でもあり、不安を感じることで生き延びてきた面もある。

そして、不安な気持ちを伝えるときに心配という言葉を使うことがよくある。

なぜか日本では、心配することは相手への愛だと認識していることが多い。

一方で、心配という名の愛を向けられた側としては、愛されているというよりも、不安や罪悪感を抱きやすくなる。

私は、母から心配という名の愛をもらって育ってきた。

不安が強い母なので、ことあるごとに心配だ、心配だと言われてきた。

言われた私としては、愛されている感覚よりも、母の心配や不安な気持ちが伝わり、それが私の身体の中に沁み込んできて自分自身も心配になった。

それと同時に、母を心配させる私は、母から出来る娘と思われているのではなく、出来ない娘で実力がないのだと思い込み、無価値感や罪悪感まで感じていた。

こうして、親子間で心配愛が引き継がれていく。

多くの人の生きづらさは、じつはこれがベースに作られていることが多い。

じつは、本当の愛というのは、相手を信頼すること。

「あなたを信じていますよ、あなたなら大丈夫」

そう言われることが、本当の愛。

心配愛は、相手を大切に思うあまり、傷つかないように怪我をしないように守ろうとする心が根底にあるので、無碍に否定するとさらに抵抗される。

「こんなにあなたのことを大切に思っているのに、否定するなんてひどい」とさらに心配をしてくる悪循環になる。

私は心配という名の愛に対しては、「心配してくれてありがとう」と感謝の言葉を返したり、「不安なの?」と聞いてみたりする。

すると、大抵の場合は落ち着いて、それ以上に心配愛を差し出されることもない。

もうすぐ50歳に手が届きそうな娘に対して、母はいまだに心配愛を差し出してくる。

「バスに乗ろうとして、横断歩道を急いで渡って交通事故にあったら、、、」と言ってくることもあり「私は小学生か、、」と閉口してしまう。

だけど「これも愛の表現のひとつなんだな」と思い「わかった、ありがとう」と愛だけを受け取るようにしている。

私が自己探求をしてきたことで、以前は母へのイライラの不快感や嫌悪感が強かったが、今ではそれも寛容に受け入れられるようになった。

ここまでくるのに、40年以上かかった。

私は本当に成長したな。