最近の出来事。
ある仕事で、会社内に提示する健康ニュース記事作成の依頼を受けた。
これまでも、産業保健師業務で同様の仕事をしたことがあったので、軽い気持ちで仕事を請け負った。
そして、出来上がった文章を担当者へ送付。
後日、編集・校正をして再度連絡するとのことだった。
まず、一回目の編集と校正がされ、追加して欲しい部分、誤字脱字のチェックがされたものが帰ってきた。
追加して欲しいと言われた部分に関しては、「こういった視点も大事なんだな」と少し面倒に思いながらも
受け入れることができたし、文章の語尾や助詞の使い方も勉強になった。
「もう訂正されることはないだろうな」と期待しつつ再度提出。
すると、再度、「説明を追加して欲しい」「もっとわかりやすくしてほしい」と言われたのだ。
そのメールを見た瞬間、「私は否定されている。私はダメなんだ。頭が悪いんだ。」という思いが体を駆け巡った。
身体中が重くて、息ができない感覚になった。
これが、自動思考とか、ビリーフと呼ばれるもの。
「めんどくさいな、やっぱりこの仕事は引き受けるんじゃなかった、、、」そんな思いで頭がグルグルした。
そう、私は誰かに「指摘」や「指導」されるだけで「私は否定された」と解釈することが多い。
事実は「指摘と指導をされた」だけ、でもその事実をどう受け取るか、その人なりの解釈が加わり、その解釈に人は苦しむ。
私が人の心理の学びや、自己探求をしていなかったら、ここまで自分を理解できず、その仕事を放り出してしまったかもしれない。
でも、以前と違うのは、私は私を観察することができるようになっていること。
もちろん、身体に残る不快感は消えない。けれど、自分で「私は私の解釈に苦しんでるだけだ。相手は私を否定している
って本当かな?」と自らに問いかけることができる。
その答えは「いいえ、否定ではないよね。もっと、こうしたほうがいいかもっていう相手の提案だよ。面倒かもしれないけど、もう一度修正してみたら?どうしても嫌なら、嫌だと思う理由を相手に伝えてみるのもひとつだよ」
自分の中での対話。
そして、そんなやりとりがあった翌日。
なんとなく、落ち着いている自分がいた。
修正に気が進まないのは事実だけど、そこまで無理難題を押しつけられてるわけでもないし、自分の勉強や経験にもなる。
そう思い直せた。
私は、カウンセリングの仕事をしていて、よく同様の相談を受けることがある。
上司や先輩に仕事の指導を受けて「つらい。否定されている。やっぱり自分はダメなんだと思ってしまう」と相談する人は多い。
相談を受けている私自身も、同じような体験をたくさんしている。たしかに、どのような指導を受けるかにもよるだろうし、理不尽で攻撃的な言い方をされることもあり、一概に自分の解釈だけに苦しむわけではないだろう。
ただ、そこで「それは本当なんだろうか?」と疑ってみること、そして、その解釈の根底にある「未完了の感情」は何なのかを探ること。
すると、少しずつ、じつは、他にもたくさんの解釈が存在することを見出すチカラを蓄えることができる。
「私を否定しているのは、私だ」
ここまで体感できたら、もうその解釈に苦しまない一歩を踏み出すことができる。
私も自分の解釈に苦しんだ1人。
その一歩を踏み出すお手伝いができるようになりたい。