「生きている意味がわかりません」クライアントからよく聞く言葉。
この言葉を聞くたびに、人は意味を求める存在なんだなぁと感じる。
私が今学んでいる「ゲシュタルト療法」という心理療法は、実存哲学、現象学といった哲学が背景にある。数ある心理療法のなかでも、哲学を取り入れているのが特徴。
実存哲学では、人は生まれてきても、幸せに生きられる保証は何もないと捉える。ただ、そこから、その人がどうしたいかで人生が変わるだけ。
自分が孤独だと思い、ずっと1人で暮らすもよし、孤独だから仲間をつくり家族をつくってもよし。どう生きようと、構わない。
生きている意味を求めるのは、人には脳、思考があるから。
犬や猫は、なんで生きているのだろうって悩むことはないはず。(本当は悩んでいるかも?)
思考というのは、出来事に意味づけをするのが機能のひとつだ。
以上のことを思うと、私は生きている意味は、自分次第でどうにでもなると考えている。
どうにでもなる、というより、自分で決められるというべきか。
生きている意味は自分の外側や他人にあるのではなくて、自分の内側にある。
人によって答えは様々だろうけれど、今のところ、私の生きている意味の捉え方はこんな感じだ。
私の生きている意味は「一生かけて、かおりになる」だ。
このブログのタイトルの意味。